東松照明が死んだ 2

で、当日その町の集会場に行きますと上座に座布団が何枚か敷いてあり、その真ん中に東松さんがあぐらをかいて座っていました。
広間は結構広い畳敷きで、およそ五十人ばかりの我々は楽に入れました。誰がこの場所を用意したのか、何故ここにしたのか、などは一切分かりませんでしたが、ともかく我々若い写真家と東松照明が会う場所としてはしっくりとしていました。

東松さんが我々に提案したのは「霞ヶ関ビルをスクリーンに見立てて、その4面に我々の写真を投影する」という、壮大な計画でした。東京に初の超高層ビルとして建設されたばかりの霞ヶ関ビルの壁面を乗っ取るという、我々が考えもしなかったアイデアです。
東京の夜に屹立する 「富の象徴」に学生の闘争を映し出す。それは都内のあらゆる所から見えるはずでした。
同時にまとまりの無かった、我々若い写真家をひとつに結ぶことにもなります。

壮大で痛快な反逆です。
我々は色めき立ちました。

その時、ひとりの男が立ちあがって「その前に、この闘争における東松さんの立ち位置を確認しておきたい」と叫んだのです。
その後の細かい経緯は省きますが、結局我々はそのどこかのセクトに所属しているらしき男に引きずられて、その場を立つことになったのです。

東松さんは「僕は君たちの味方だ」というような軽薄な言葉は発しませんでした。
一方で文字通り軽薄な我々は、そう言う薄っぺらで短絡的な言葉を好んだのです。

東松さんの前に座って居た我々はそのひとりの男に引きずられるように、ぞろぞろと立ちあがり、その場をあとにしました。

私が部屋を出るときに振り返ると、東松さんはあぐらをかいて腕を組み、畳の一点をじっと見つめたまま、達磨のように押し黙っていました。

私はその時本当にすまないと思ったのです。たぶんそんな行動をとることを申し訳ないと思った若者は他にも大勢いただろうと思います。でも誰もその場で東松さんに謝ることはしませんでした。

私が自分の人生で、もし戻ってやり直すことができるのであれば、やり直したいのはこの一点です。
「僕は残ります」と言えなかった自分を悔いると同時に、立つなら謝って立ちたかった。

青春の蹉跌、と言うほど大袈裟なものではないのですが、「東松照明」という名前を聴くといつもほろ苦くそのことを思い出します。

東松さん、どうぞ安らかに。
わたしは、あなたを尊敬しています。

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“東松照明が死んだ 2” への1件のコメント

  1. 小川 美恵子 より:

    娘の自宅に正月の挨拶に参りました。
    その折の話になるほど・・・と同時にささやかな
    違和感がありました。
    私は縁の中で茶道・華道・を学びました。
    現在は、指導者の立場です。
    孫娘は大学・在学中です。銀座の格式の高い
    食事処でアルバイトを致しています。
    世間話の中で食事処のお店の接待の格式に、話が
    弾みました。  日本の代表的文化の格式のある茶道・
    一流の食事処の接待の格式。
    不思議な世界観がありますね。応用・活用・人生の嗜みとして学ぶ
    茶道。食の文化の代表的な和食処・・・おもてなしの心は共通ですが、
    仕事の目的はまったく異なります。
    ・・・少し違和感のある質の違う感じが残りました。
    折々の事象の中で見え隠れする違い・接点の同質の触れ合い。
    花の文化、華道の伝書にある・宜しからず・・・苦しからず。の心が使い分けの
    根本でしょうか・・・と私は感じました。

    カマ先生の 東松 照明氏への追悼の心を、深く知りました。

    是非を正せない日本人の魂・・・陰影のある意・深い心の追悼の意。
    純粋ゆえの語りきれない意を感じます。

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