暮れにドストエフスキー

人形町大通り

25日から人形町の表通りに暮れの露店が並び始めました。
今年は歩道を拡げ、写真にある時計塔もできあがり、活気はあるみたいです。
時計塔は時間に志ん生やら金馬やら、落語界最後の名人上手達が聞かれます。

さて本日は朝九時に図書館へ行って、暮れから正月に掛けて読む本を借りてきました。
亀山郁夫訳「罪と罰」、翻訳が出た時評判になったものですね。
我々が読んだ頃は米山正夫訳、文庫で上下巻でしたが、亀山版は三分冊です。

「七月の初め、度はずれに暑い時分の夕方ちかく、一人の青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、何となく思い切り悪そうにのろのろと、K橋の方へ足を向けた。」

「七月の初め、異常に暑いさかりの夕方近く、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている小さな部屋から通りに出ると、なにか心に決めかねているという様子で、ゆっくりとK橋のほうに歩き出した。」

「罪と罰」冒頭です。
上が米山正夫、下が亀山郁夫の新訳。
私は外国語は出来ませんし、ましてや翻訳などというものはやったことがありませんから、この二つのどちらが名訳なのかは判断は付きませんが、日本語としてみれば、好き嫌い、読み易さ、難さはあります。
どうじにどちらも、私には小説家の文章には見えません。
やはり翻訳臭さがあります。
けれど、これはもしかしたら日本語の小説にしてしまうと、なにか原文から大事なものが抜け落ちてしまうからこういう文章になっているのかも知れません。
その辺りは原文の読めないものには、想像しかできないのですが。

まあ、読んでみようと思うのですから、わたしには亀山訳が読みやすいと思ったわけです。
村上春樹訳の「ライ麦畑で捕まえて」は衝撃でしたし、翻訳は大事ですねえ。
我々時代に読んだものでもっとも悪名高きは松浪信三郎訳「存在と無」でしょうね。
ご本人にお会いしたこともありますが、ま、哲学者というより矢張り「哲学の専門家」という感じでしたね。
身のうちに切羽詰まったものがあって、訳に当たらないと、ああいうものは単に紹介文になってしまうのだと思います。

まあともかく、暮れから正月は大ドストエフスキーに挑もうと思ったわけであります。
「ドストエフスキーが居るのに、何故私が小説を書く必要があるのだ」と悩んだのは大江健三郎ですが。。。

皆様本年一年間、私の写真と文章におつきあいいただいたこと、感謝致します。
来る年が皆様にとりまして、健康で穏やかであることを願っております。

ありがとうございました。

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