火事

焼け跡

火事と喧嘩はなんとか言いますが,喧嘩の方はもうこの頃では「華」とはとても呼べない様です。大勢でよってたかって一人をなぶるのが当たり前になってしまいましたから、そこに華があるわけはない。昔は大勢と一人がぶつかっても大勢の中から誰か一人が出てきて喧嘩をしたものですが、今では総掛かり。これを卑怯というんです。江戸っ子は卑怯といわれることが最も恥ずかしいことでしたから、少なくとも人前では卑怯といわれないように振る舞いました。それが伊達であり、粋でもあったわけです。卑怯といわれないように見栄を張るから粋がるという言葉も出来たわけでしょうが、この頃は卑怯もくそもない、勝ちゃいいんだという風潮、もうけるのが勝ちというホリエモンや村上ファンドもその口ですね。心意気とか気概などというものははなからありません。

じゃあ火事の方はどうかというと、これはもう昔も今も変わらない。火事を出した家は悲惨この上ないんですが、火の届かないあたりの人は何となく華やいでいる。このお宅、両国のさるお宅。二回から火事を出して、幸い二階だけですんだらしい。人が出入りしてますし、火事場のあとといった、ごたごたしい様子もありません。むしろ二階を見なければこぎれいな感じです。大工をいれてすぐに二階を修繕するというような蓄えもない。まあ下だけで暮らせないこともないから、当分はこのまま行こう、ってようすです。
火事といって思い出すのは明治座の火事。昭和32年。わたし小学生です。まだ茅場町に住んでいました。東京へ移ってきて間もないころですから茅場町の六畳一間のアパートに四人で暮らしていたんですから、すめば住めるもんです。直に小網町の二階建ての一軒家に移るんですが、それまでの仮住まい。夜中に外がやかましい。なんだか尋常でない騒がしさで、おふくろが外に出てみると空が赤い、って言うんです。「これは近いから、ちょっと見てくる」ってねまきの上に上っ張りを羽織っただけで出て行っちゃいます。「お婆ちゃんを頼むわよ」って、小学生にそれはないだろうとおもうんですが、「うん」。そのうちにウ~ウ~言って消防車が来る、パトカーが来るで外はもうひっくり返るような騒ぎ。「僕もちょっと見てくる」と外へ出ましたら、もう空は真っ赤。「あまりそばへ行くんじゃないよ」というお婆ちゃんの声を背中に、人がかけてゆく方へ行きます。小網町から明治座まで、子供の足では結構ありますが、あっという間に着いた感じ。当時はまだ隅田川に堤防はありませんから、川の方にも消防船が出ている様子。まあ、紅蓮の炎というのはああいうのを言うんでしょうね。明治座の人や消防が火の周りをうろうろしているんですが、とても手が出せない。遠巻きにそれを見ている人たちがいろんなことを言ってます。「どうも漏電らしいよ」というのもあれば、「付け火だってさ」という人もいる。当時の明治座はまだ新派と新国劇がメイン。花柳、水谷、大矢、伊志井寛に島田、辰巳の全盛時です。その小屋が焼けるってんですから、それはもう大騒ぎ。「あの黒いけぶが薄くなって透明になると、ぱっと火の手が上がるんだ」とそれを期待して嬉しそうに解説する人でなしや「もうじきだね」なんて喜ぶ人非人が大勢いて、わたしはいつしか一番前に出ていました。すると誰かが「こりゃあいけない、天井が落ちるぞ」と言ったんですがまもなくドドドドと言う大音響とともに明治座の大天井が落ちて、すさまじい火の粉が舞い上がると同時に、太い火柱が立ち上がりました。「おおっ」と言うどよめきがわき起こり、見ているわたしは顔が熱くて、思わず脇を向いたら、同じように顔を押さえて脇を向いたおふくろと目があったんです。
うちへ帰ってからおふくろは「頼りにならないねえ、お婆ちゃんを頼むって言ったのに」ですって。まあ個人の家ではないし、「保険があるから大丈夫さ」と言う野次馬の声もあり、なんだかみんな無責任に華やいでいました。不謹慎な話しですが、あのころはまだ「火事と喧嘩は江戸の華」の名残がありました。

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