雨やどり

猫が雨宿り やどり、っていうのがどういう意味か分からないけれど「雨やどり」の意味はみんな知っている。宿借りが縮んでヤドリ、なんですかねえ? このタイトルの名曲もありましたが、映画のワンシーンにも詩の一節にもよく使われる言葉。温帯モンスーンの日本の田園、村、里、町のにおいまでもが伝わってくるような言葉。誰が使い出したかは知りませんが、もの凄いセンスの人がいるものですねえ。

写真はコンデジの限界見本ではありません。昨晩の雨の中、よくうちの裏に来ているきじ猫の三兄弟。はじめは排気ダクトの下に三匹が折り重なって寝ていたんですが私がそれに気づいてバッグからカメラを取り出したり、傘を斜めにしたりして構えているうちに三匹バラバラになってしまいました。ここは雨が当たらないんでしょうか、雨の日には良くここに猫がいます。ホームレスといわれる人たち、テントなんかも無い人たちは雨の日はどうしているんでしょうか。猫だって、みんなどうしているんでしょう。気持ちのいい暖かで穏やかな日には、それこそなにからも束縛されず天地の間に己の身ひとつをのんびりと遊ばせていればいいわけで、その至福の代償が雨やどりの場所探しなんでしょうか。そうすると人は安心と平穏の代償に服従や忍耐を受け入れているわけ? それが生きるということなら、生きることの意味は? でもその服従や忍耐の日常に、愛情や友情がしみこんできて人に勇気ややる気を起こさせているんでしょうね。一体、この宇宙や人や生きものをつくったデザイナーはどんなセンスの持ち主だったんでしょう。アメリカの一部のキリスト教原理主義者はダーウィンの進化論を認めない。すべては神が作ったと言ってはばからない。そればかりかそういう教科書をつかう州がいくつもあるとか聴きました。ほんまかいなと思わされますが、科学者の中にもダーウィンの進化論の「適者生存」をまゆつばと言う人もいるらしい。でもそれは実証的に反論しているのではなく、論理的に反論している。元々進化論そのものが実証的じゃ無いんですから。猿を何億年眺めていても人間にはならないだろうな、という素人の予感みたいなものは私にもありますが、その人の言うのは違う。地上に降りた猿がすなわち人類の祖先。猿は人に進化した、と、ここに矛盾があるというわけです。猿は樹上生活者です。ここで適者とは樹上にもっとも適するものが上位です。木から下りるものはむしろ敗者です。その敗者が人に進化したというのはすでにダーウィンの進化論はうちに矛盾を抱えているという指摘です。この論理はダーウィンを打ち砕くほどのインパクトはなくとも、苦笑させる程度の圧力はありそうな気がします。論理学や哲学は科学の進歩に伴って、大きく変貌します。科学哲学というような学問さえあります。ただ哲学は宗教と違って絶対的な真理などは提示しません。宗教ほど大胆でなく自信に満ちてもいません。もっと臆病で緻密なんですね。ですから科学の進歩という現実に柔軟に対応していく。言葉を代えれば日和見的なんですね。このあたりのことがわかりやすく、歴史を物理学というたて軸で解説している本があります。山本義隆の「磁力と重力の発見」。全三巻の大著ですが、私が教わった物理の中で、私が習った歴史の中で一番面白かったと推薦できます。みすず書房刊。毎日出版文化賞もとったので、ご存じの方もあるでしょうが、お奨めします。

で、なんの話しでしたっけ。ともかく雨やどりの猫たちを見て人間一般のと言うより生きものすべてのものの哀れを感じた、と言うお話し、でした?

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