本当にこれが最後の桜情報

葉桜

何故か今日はスタジオに美空ひばりが流れています。iPodのプレイリストにHibari Balladeというのを作ってありまして、何故か今日は朝から歌謡曲。こんな気分の日もあります。元来、私は音楽は邦楽、それも純邦楽派なんです。何故って私の母は長唄の三味線弾き。ものごころつく前から三味線と長唄が子守歌代わり。母が東京へ戻ってきた私の小学三年まで、私はピアノの音を聞いたことがありませんでした。ですから普通の人と逆の音楽体験をしています。門籍が一番の邦楽界にあってそれのない母は苦労したようですが、腕一本で演奏家にまでのぼりつめたのですから、まあ頑張ったんでしょうね。先日何十年ぶりかの同窓会で小学校へ行ったとき、邦楽室というのがあってそこに三味線が何丁も置いてあるのを見たときにはちょっと逆毛を立てられるような違和感をおおぼえました。
何故って、中学の二年の時にこんな経験をしたんです。学芸会にその担当だった社会科の教師から呼び出され、職員室で大声で、「おまえのかあちゃん、ぺんぺんやってんだろう。おまえもなんかやれや」って云われたんです。これは相当こたえましたね。差別というものを肌で感じたと言うと、被差別部落に生まれた人から抗議が来るでしょうが、事の大小深浅はともかく、まともに差別的言辞を向けられると人はこうなるという体験をしました。怒りより先に恥ずかしさがこみ上げてくるんです。

これは意外でしたね。そしてその後からじわじわと怒りがこみ上げてくるんです。私はその日以降その教師と口をきくことはありませんでした。ささやかな抵抗ですね。で、何が言いたいかって云いますと私が落語を聞いたり、長唄を聴いたり、歌舞伎を見るのは教養じゃないんですね。皆さんが洋楽を楽しむように私は邦楽を楽しんでいる。同年代がビートルズに衝撃を受けたと云っているときに、私はただやかましいと思っただけです。今でもその何曲かをのぞいてさほどビートルズに感心しないんです。むしろパコデルシアやユパンキ、サッチモやピアフに感動します。つまり新しいものにはそれほど驚かないで、めんめんと続いているものやその生きて行く枷の中から必然的に出てきた音楽に心を揺さぶられます。では、何故今日美空ひばりかと言いますとマニエリスムなんです。美空ひばりという歌手が好きかと言われると、たぶん私は嫌い。なのになぜひばりをきくかといえばうまさなのです。彼女のわざとらしさや、計算されたかわいらしい仕種などは鼻についてならないのですが、邦楽混じりの歌を歌うときの節回しは他の誰も真似が出来ないうまさです。これにしびれるんです。彼女は長唄も歌いますがこれは最悪。師匠は杵屋勝東治、勝新や若山富三郎の父親で手が良く回ることで評判だった人ですから師匠は悪くない。悪いのはひばりの歌い方です。歌謡曲を歌うときはもてはやされる裏に逃げる歌い方、つまりファルセットですが、これが邦楽では駄目、軽くなっちゃうんです。あくまでも地声で歌う、苦しいのを我慢して声を絞る、小田和正ですね。そうすることで歌に緊張感が生まれる。悲しいかなひばりはそれが分かっていても癖で裏へ逃げてしまう。素人がなにを小癪なと言われそうですが、まあそんな理由で時々ひばりを聞きます。圧倒的な技術、絶対にかなわないという技術に打ちのめされたいときがあるんです、私には。高村光太郎の12歳の時のねずみのレリーフ、ダリの静物画、ダヴィンチ、そういう圧倒的なテクニックに浸りたくなるときがあるんです。大概は自分がスランプの時、完全無欠の技術を見ることでエネルギーをもらおうとする。写真家では土門拳。う~~ん、とうちのめされることによって立ち上がる元気をもらう。ちょっとMでしょうか? 大工さんの技術やしゃかんの技術、小さいとき飽かず眺めていたんですから、この癖はその頃からのもの。前にも書いたことがあるんですが、私が土門拳の古寺巡礼を見ているときに後ろを通りかかった母が「だれ?」「土門拳!」へえとかふーんとか言って通り過ぎながら「あんたにそういう写真は撮れないよ」なるほどね、親はよく見ているもんです。親に引導を渡されたことがもう一つ。中学でくだんの事件の後、それなら俺は長唄をやってやろうと思ったんです。子供の時はやっていました。NHKにも出ています。多少の自信はあったんです。おふくろに頭を下げて教えて欲しいと言ったんですが、いきなりそこにあった三味線を指して「調子を合わせてご覧なさい」私が調子を本調子にすると「へー、調子は合うんだ」つまりこれは耳のテストですね、今考えれば。次に母が手を打ちます。四拍子ぐらい。「間に入れてごらん」母の手拍子の間々に私が拍手を入れます。次第に早くなって八拍子。十六拍子ぐらいのところで私は母と一緒に手をたたいていました。「やめたほうがいいよ」でおしまい。本職になるには十六拍子の間に入れられるぐらいでないと大成しないそうです。これ、素人のお弟子さんにはしません。後年テレビでウィントンマルサリスが同じようなことを言ってました。「音楽はメロディーだけでは音楽にならないが、リズムだけでも音楽になる」って。まあ、それで私は写真をやっているわけですが、これは決して写真が長唄の下位にあると言うことではなくて、人には向き不向きがあると言うこと。う~ん、でも写真も本当は向いてないのかもしれません。でも、今更転向もね…。

定点観測の桜、とうとう葉桜です。

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