続ふるしき
2009 年 5 月 18 日
で、きのうの続きですけど、談志の後、志ん朝の「風呂敷」もあったんで、聞いてみました。
こちらは親子だから較べても良いでしょう。
志ん朝の方が親父より噺がすこうし長くなってます。
今時の人に分かるように、あるいは親父が大分はっしょってる説明を付け足したりして、長くなってるんですね。
古典をやるときに良くこういう風に描写に言葉を添えて、分かりやすくするのは別に志ん朝に限らず、
「勉強家」の円窓だって談志だってやるんですが、
これは親切そうでいて、かんじんの噺を殺してしまうことの方が、多い。
「わからネエだろうから、おせえてやるけど」みたいなところがあって、余計なんですね。
描写が長くなると、リズムが悪くなって、お客が笑わない。
お客の中には分かった人も、分からない人もいる。
分かってる人は当然笑いますが、分からない人だって笑うんです。
だから、噺の調子をこわしてまでお客に親切にすると、お客は静かになっちゃうんですね。
吉原の話や、江戸時代が舞台の噺なんぞは、話してる方だって知りゃしないんですから、
それでも噺を覚えて話していれば、大体どんなものか想像できてくるんでしょ。
聞いてる方だっておんなじです。
あんまり親切に噺をこしらえ直さない方がいいんです、とわたしは思います。
志ん朝は生きてるときは「テレビにばっかり出やがって、ちっとは噺の方も勉強しろ」なんて
通の間じゃあんまり評判が良くなかったんですが、若くして死んで、
死んだら急に名人扱いされて、本人も面喰らってるでしょうね。
で親父と較べると、月とすっぽん、とても親子とは思えない、ほどです。
巷で言われる名人扱いが、わたしにはどうしてもわからない。
立て板に水なんですが、始終立て板に水だから、ただ早口なだけに聞こえてしまいます。
「序破急」というか「めりはり」というか、噺に緩急がないから
ただまくしたててるだけ、みたいに聞こえる。
志ん生のつっかえたり、どもったりしながらでも噺にリズムがあるのは
極端に無駄を削いだその話の構成自体にあるんですね。
ただ者ではない作家です。
志賀直哉みたいな省略の仕方で、それではなしにうねりが出てきます。
巷で名人といわれる人がもう二人ほど、わたしは全然そう思えない人がいますが、
それはまあ今度機会があればということで。
ああそうだ、巷では名人扱いされたことないんですが、
実際うまくないんですが、
柳昇の「雑俳」おもしろいですよ。
下手なのに可笑しい。
いいじゃありませんか!