小川隆之氏逝く
2008 年 11 月 28 日小川隆之さんが亡くなられました。謹んでご冥福をお祈り致します。
小川隆之と聞いてもご存じの方は少ないと思います。
でもわたしにとっては最も衝撃を受けた写真家の一人です。
1968年、巷は政治の季節でした。
私も1967~1971はほとんど毎日といっていいほどデモの現場に出ていました。
そう言うある日、デモもなくおだやかな日和の日に銀座の画廊巡りをしていて、たまたまニコンサロンへ誘い込まれたのです。
松島眼鏡の一階にポスターがあって、黒人の男の子が川の中から首だけ出しており、その背景にマンハッタンの摩天楼群が写っている写真に吸い込まれたのです。
川はハドソン川でした。
二階に上がって展覧会場にはいると「NEW YORK IS」が並べられています。
ショックでした。
今の人にはちょっとわかりにくいでしょうが、その頃政治の季節に浸りきっていた我々には政治的でないものは無意味、思想性の感じられないものは無駄、という一種熱に浮かされた状態で居ましたから、この小川さんの写真には衝撃を受けました。
それは自分が否定している非政治的、無思想(ほんとはそうでないんですけど)、のこの展覧会なんか、へへん、と鼻で笑って出てくる類の展覧会なのに、わたしはぐっと心臓をつかまれてしまったのです。
自分が慕っているものから心臓をつかまれたんじゃなくて、自分が無意味と断じていたものから心臓をつかまれたのです。
その作品と小川隆之という名前とは焼きごてをあてられたように私の記憶に深く刻まれました。
しかしそれから10年15年、小川隆之の名前を聞くこともなく、作品に触れることもなくうちすぎましたが、あるとき友だちの陶芸家のところで何気ない話しをしているとき、突然小川隆之という名前がその奥さんの口から語られたのです。
「お姉さんの旦那さんがアメリカの有名な写真コレクターの息子さんで、その息子さんと小川さんは仲がいい」ということでした。
まあ紆余曲折があって、わたしは小川隆之さんと知り合いになり、さらには親しくお付き合いをさせていただき、展覧会の度に来ても貰い、彼の事務所で飲むような間柄になりました。
またその事務所の大家さんが親しくしていた建築家の持ち物だったり、因縁はけっこう深くなりました。(この大家さんの建築家の話もまた機会を作ってお話しします。おじいさんが咸臨丸の御殿医だった柴岡さんなんですが、、)
彼は「NEW YORK IS」のあとコマーシャルに転じていたのでした。
「横須賀がCFやらないかって誘ってくれたのがキッカケなのよ」小川さんはそう言っていました。
ここでまた「エエ~」です。
「射」という作品で横須賀功彬にも衝撃を受けていたからです。
ただ、おしゃれで抜群のセンスで撮られている小川さんのCF、CMでしたが、わたしはこれはあまり、、、でした。
どこかで見たことがある、ものが多かったのです。
わたしにとって小川隆之は後にも先にも「NEW YORK IS」です。
あの時代、政治的ならざるものは無意味無価値みたいな我々の熱は時代の熱でもありましたから、
有名無名を問わず皆少なからずそこを意識しながら仕事をしていましたが
そんなの関係ねえという態度で作品を作ったのがコンテンポラリーだった小川さんと、アナーキーだった井上陽水。
私はこの二人しか時代の熱に浮かされなかった表現者を知りません。
みんな少なからず時代には犯されるのです。
時代と寝た、などといかにも積極的であったかのように言いますが、そうでなければ認められないかも知れないという恐怖に負けてそうなるというのが本音ではないでしょうか。
小川さんからは知り合う前も知り合ってからも影響を受けました。
ただ小川さんはわたしの周りの人には作品をあげるのに、わたしにはとうとう一枚もくれませんでした(笑。
その意味は分かりませんし、もうその意味を問うことも出来ません。
どうぞ安らかに眠って下さい。