昨日のDiaryの最後の言葉は、もちろん冗談のつもりでした。が、それがそうでもなかったのです。
その前に私の母校坂本小学校です。創立何年になるのか聞き忘れてしまいましたが、100年は優に越しています。谷崎潤一郎の母校と言うこともあって、資料室にはこんな額もかかっています。
歴史が古いとこんなものもあります。下の写真は職員室の前にある廊下からはいる防空壕。何人ぐらい入れるのか、じっさいに使われたことがあるのかは案内をして下さった先生もわかりません。
左はコンピューター室。来年Macを入れるそうです。生徒が激減しているために校内に色々な部屋が出来ています。畳の部屋に三味線が何丁も置いてあるおけいこ部屋や工作室など以前は教室に使われていた部屋がみんななにかの展示や習い事の部屋に変わっていました。都心の学校はみんな同じようなものなんでしょうね。併設されていた坂本幼稚園は閉園。1895年に創設されて1984年に閉園ですからちょうど百年で幕を閉じたことになります。いま下町はマンションブームですからそこへ移ってきた人たちの子弟が通うようになればまた賑やかになるかも知れません。
さて、タイトルですが、今まで私は年齢の節目というものを特別の思いを持って越えたという記憶がありません。二十代三十代四十代五十代となんの感慨も抱かずに越えてきました。でも昨日のクラス会はちょっと味わいが違っていました。このクラス会が前回持たれたのは17年前、我々が43才の時です。皆地位も出来、子供も手離れし、仕事に自信も持てるようになったまさに壮年期。ですからみんな自信に満ちていました。顔つきも晴れやかだった記憶があります。それがそこからたった17年でこうも変わるものかと思うほどの変わりようです。みんな下を向いてしまっています。「なにもしなければギリギリ食っていけるかも知れない」と言うような挨拶をする者まで居ました。なぜでしょう? 仕事のために生きていたわけではないのでしょうに、職を追われるときになって、引退を迎えて、急にみんな生きる姿勢が消極的になってしまっているんです。そんな消極的な意見を言う人だってみんな私よりははるかに安定しているのに。なにもしなければ食べていけるというのは、我々フリーにはあり得ませんからね。一生働き続ける気概がなくては、フリーにはなれませんから。ただ二人ほど「引退は考えない」と言った人がいます。下を向かない気持ちを前に出した人は、マア言ってもいいんでしょうね、業界人なら大概ご存じのPilot’sの創業者Mさんともう一人は観光と福祉を専門にする個人タクシーを開業しようとしているHさん。
いやな思いをがまんしてつとめ続けた結果、なにもしなければ生きて行けるだけの年金を手に入れ、一方いやなことをしないで来たために一生働き続けなければならない我々フリーランス。でも、それはどっちがいいのかわからなくなりました。私にはまだ目標があります。来年の個展もそうですが、それ以外に新しいことへの挑戦も考えています。とても下を向くことなんか出来ないのです。確かに状況は苛烈です。広告などという仕事は若い人のものですから。40代で同年代のサラリーマンより一桁多い収入を得たり絶頂を極めても50代後半から一気に仕事量は減っていきます。これは有名無名を問いません。早くに方向転換を考えなければ痛い目にあいます。私のまわりでも仕事が激減してやめていく人、小僧の頃にやっていたような仕事を拾い歩く人、いろいろです。でも続けている人はみんな元気です。なぜ? 写真が好きだから、好きなことをやっているから、でしょうね。
昨日のクラス会はちょっと考えさせられました。今日になっても寂寥感が消えません。なんだか気持ちのなかに希薄が入り込んできたような、希薄な部分が出来てしまったような、いやな気分です。表面上は顔を見れば一言はなせば、たちまち子供の頃に戻ってちゃん付けで会話は出来るのですが、昨日のクラス会はたぶん出席者のすべての気持ちのなかに、いやな虫がわいたんじゃないかと思います。寂寥という虫が。これは追い出すのが大変です。私は天涯孤独の身ですから身体の中にこういう虫がわかないようにして生きてきたんですが、昨日は失敗でした。ちょっと油断をしたらこの虫に入り込まれたようです。もう、クラス会は卒業かな、とも思いました。「還暦もみんなで渡れば怖くない」と言う会だったんですが、却って一人で渡った方が良かったようです。
今後そんな年齢をお迎えになる当サイトの来訪者さまもくれぐれもこの虫にはお気を付け下さい。年齢だけは一歩先行く風間からの忠告です。
今、高橋尚子が一位で国立競技場に入ってきました。やはり下を向いてはいけませんね。