2005 年 11 月

今日、どぶろく祭り

2005 年 11 月 28 日

いつも行事が終わってからのご報告でしたが、今日はまだ間に合います。写真も昨夜のうちに撮っておきました。ほんとは、たまたま通りかかって「お、あしたか」って思って、撮ったんですけどね。ともかく間に合って良かった。12時半から里神楽も奉納されますが、これは近場の人しか間に合わないでしょうか? 場所は小網神社、下町七福神の一社で福禄寿と辧財天を担当。担当って変ですかね。ちいさい社ですが本格的な檜作りの神社です。住所は中央区日本橋小網町16-23。日比谷線人形町から五分、浜町、水天宮前、茅場町からは10~15分ぐらいです。今日行くと荻だか薄だかで作ったミミズクが買えます。勉強の神様ですから、受験生の親御さんが求めて行くようです。で、ここが重要ですが、参拝にゆけばどぶろくが振る舞われます。私も昔小網町に住んでいたんですが、その頃は中学生。どぶろくは貰えなかったんですが、今日はいただけそうです。会社帰りでもたぶん間に合いますよ。取りあえずお知らせまで。

酉年の酉の市

2005 年 11 月 21 日

お酉さまと言えば、浅草ですよね。私の母親というのはお祭り小僧だったので、親が生きているときは必ず浅草へ行ってました。しかしそのお祭り小僧が逝って30年、私はずっと町内ですませています。市場通りを築地の方から来て水天宮の交差点を過ぎて最初の信号を左折、すぐ右側にある松島神社です。入り口は業者、なかは神社の「かっこみ」を売っています。神社のは小さい熊手で千、二千、三千円ぐらい、業者の方は二十万ぐらいのものまで置いてあります。お酉さまというと思い出すことがあります。中学生の同級生に高橋くんというのが居ました。今で言う悪ガキで、いたずらはもとより大人相手の悪さばかりやっていた生徒でした。彼の家の稼業はテキ屋の親方。家の女中の風呂に入っているのをのぞいたとか、「親父の机のなかにあった」といってきわめて直接的なエロ写真(今はネットサーフィンをすればごろごろ落ちているその手のものも、当時は貴重品(?)でした)を教室に持ってきてみんなに見せびらかしたり、それを女の先生の授業の時に教壇の引き出しに入れておいたりと、悪行の限りを尽くしていました。ただ根がいい奴なんで、我々には人気がありました。仇名が「大将」。悪さはするけど人なつっこい、昔は良く居たタイプの子供でした。
私が大学に入った頃、やっぱりお酉さまで浅草へ行ったときのことです。どこで熊手を買おうかとうろうろしていると、どこかから「カザマ」と声をかけるものが居ます。見回しても知り合いらしき人物は居ないのにまた「カザマ」。声のした方を見るとぎっしりと並んだ露店の比較的大きな店から声がします。そしてその店のなかに紺の股引にはっぴ姿の若い衆がにこにこしながら、私に向かって手を振っています。オフクロが「だれ?」と訊きます。「タイショウ、高橋だよ、中学の同級生」聞き終わらないうちにオフクロはタイショウのところへ向かって歩いていました。「タカハシクン、元気そうね!」タイショウは頭を下げてなんか挨拶しながら口の中でごにょごにょ言ってましたが、「はい、わかりました」とか言って、今まで家で買っていた様な小降りの熊手をオフクロに渡して、しかも店中で、手打ち。帰り際にタイショウが小声で「俺、お前のオフクロに会ったことあったっけ?」「ないとおもうよ」「そうだよな、そうだと思ったんだ」と、訳のわからないことを言ってその場は別れました。帰り道、母に「タイショウに何を言ったの?」と訊いても笑っているだけでした。でもその後タイショウにあったときに聞いたはなしでは母は「入り口からずっと勧められるの断って、タカハシクンのとこ目指してきたんだから、おまけしなさい」って言われた、ということらしい。「勉強になったよ、ああいうのつくづく気合いだな」と言ってました。恥ずかしい。テキ屋の上を行く気合いなんてあんまり自慢にゃならないと思うんですけど。でも一度そういうオフクロからこっぴどく怒られたことがあります。水天宮に植木市が立っていた頃、夕方たまたまそこを通りかかった私はいつも見ているオフクロの値切りを真似してみたくなって、一軒の支度中の店の前でひとつの鉢を手にとって幾らかとききますと、いくらいくらといいます。それを無理な値段に値切ってみたんですが交渉決裂。マ、結局私はなにも買わずに帰って、その話を母にしたんですが、すると母が怒ったんですね。私にお金を握らせてその店へ行って最初に言われた値段でそれを買ってこいと、凄い剣幕です。帰ってきてから言われたのは、最初の客が冷やかしでは、その日一日気分が悪い。最初の客は必ず買わなきゃいけない。それと値切るときのルールは、買う意志のある者だけが値切る権利があるんだと言われました。最初から冷やかしで値切るのはだめだと。
昔は露店でのやりとりなんかにも暗黙のルールがあって、みんなそんなことは常識だったんでしょうね。今や望むべくもないことでしょうけど。

引退

2005 年 11 月 20 日

昨日のDiaryの最後の言葉は、もちろん冗談のつもりでした。が、それがそうでもなかったのです。
その前に私の母校坂本小学校です。創立何年になるのか聞き忘れてしまいましたが、100年は優に越しています。谷崎潤一郎の母校と言うこともあって、資料室にはこんな額もかかっています。

歴史が古いとこんなものもあります。下の写真は職員室の前にある廊下からはいる防空壕。何人ぐらい入れるのか、じっさいに使われたことがあるのかは案内をして下さった先生もわかりません。

左はコンピューター室。来年Macを入れるそうです。生徒が激減しているために校内に色々な部屋が出来ています。畳の部屋に三味線が何丁も置いてあるおけいこ部屋や工作室など以前は教室に使われていた部屋がみんななにかの展示や習い事の部屋に変わっていました。都心の学校はみんな同じようなものなんでしょうね。併設されていた坂本幼稚園は閉園。1895年に創設されて1984年に閉園ですからちょうど百年で幕を閉じたことになります。いま下町はマンションブームですからそこへ移ってきた人たちの子弟が通うようになればまた賑やかになるかも知れません。

さて、タイトルですが、今まで私は年齢の節目というものを特別の思いを持って越えたという記憶がありません。二十代三十代四十代五十代となんの感慨も抱かずに越えてきました。でも昨日のクラス会はちょっと味わいが違っていました。このクラス会が前回持たれたのは17年前、我々が43才の時です。皆地位も出来、子供も手離れし、仕事に自信も持てるようになったまさに壮年期。ですからみんな自信に満ちていました。顔つきも晴れやかだった記憶があります。それがそこからたった17年でこうも変わるものかと思うほどの変わりようです。みんな下を向いてしまっています。「なにもしなければギリギリ食っていけるかも知れない」と言うような挨拶をする者まで居ました。なぜでしょう? 仕事のために生きていたわけではないのでしょうに、職を追われるときになって、引退を迎えて、急にみんな生きる姿勢が消極的になってしまっているんです。そんな消極的な意見を言う人だってみんな私よりははるかに安定しているのに。なにもしなければ食べていけるというのは、我々フリーにはあり得ませんからね。一生働き続ける気概がなくては、フリーにはなれませんから。ただ二人ほど「引退は考えない」と言った人がいます。下を向かない気持ちを前に出した人は、マア言ってもいいんでしょうね、業界人なら大概ご存じのPilot’sの創業者Mさんともう一人は観光と福祉を専門にする個人タクシーを開業しようとしているHさん。
いやな思いをがまんしてつとめ続けた結果、なにもしなければ生きて行けるだけの年金を手に入れ、一方いやなことをしないで来たために一生働き続けなければならない我々フリーランス。でも、それはどっちがいいのかわからなくなりました。私にはまだ目標があります。来年の個展もそうですが、それ以外に新しいことへの挑戦も考えています。とても下を向くことなんか出来ないのです。確かに状況は苛烈です。広告などという仕事は若い人のものですから。40代で同年代のサラリーマンより一桁多い収入を得たり絶頂を極めても50代後半から一気に仕事量は減っていきます。これは有名無名を問いません。早くに方向転換を考えなければ痛い目にあいます。私のまわりでも仕事が激減してやめていく人、小僧の頃にやっていたような仕事を拾い歩く人、いろいろです。でも続けている人はみんな元気です。なぜ? 写真が好きだから、好きなことをやっているから、でしょうね。
昨日のクラス会はちょっと考えさせられました。今日になっても寂寥感が消えません。なんだか気持ちのなかに希薄が入り込んできたような、希薄な部分が出来てしまったような、いやな気分です。表面上は顔を見れば一言はなせば、たちまち子供の頃に戻ってちゃん付けで会話は出来るのですが、昨日のクラス会はたぶん出席者のすべての気持ちのなかに、いやな虫がわいたんじゃないかと思います。寂寥という虫が。これは追い出すのが大変です。私は天涯孤独の身ですから身体の中にこういう虫がわかないようにして生きてきたんですが、昨日は失敗でした。ちょっと油断をしたらこの虫に入り込まれたようです。もう、クラス会は卒業かな、とも思いました。「還暦もみんなで渡れば怖くない」と言う会だったんですが、却って一人で渡った方が良かったようです。
今後そんな年齢をお迎えになる当サイトの来訪者さまもくれぐれもこの虫にはお気を付け下さい。年齢だけは一歩先行く風間からの忠告です。

今、高橋尚子が一位で国立競技場に入ってきました。やはり下を向いてはいけませんね。

新藤教室か小学校クラス会か

2005 年 11 月 19 日

悩んでいることがあります。きょう19日は写真家の新藤さんのスタジオでLEDライトセーバーの講習会があります。LEDライトセーバーの生みの親の伊藤さんが講師。プロがプロに教えるワークショップ。日本の写真界もずいぶん開けてきました。昔は自分の技術や、特別の道具は囲い込んでしまって門外不出、みたいなことが多かったんですが、今の方達はオープンです。それはとりもなおさず、ご自分の技術やスキルに自信があるからで、道具ややり方をオープンにしても、それぞれの作るものは一緒にはならない、と言う確信でしょうね。ずいぶん悩んだんですが、今日は私が卒業した坂本小学校(谷崎潤一郎の学んだ学校です)の同級会でもあります。よわい六十、みんなで渡れば怖くない、と言うクラス会です。どうでもいいと言えばどうでもいいのですが、こちらが先に告知が届いていて、出席の返事を送ってしまっていますからちょっと悩みました。悩んだときは流れのままに、が信条の私は、結局クラス会に行くことにしました。「心をここに残しつつ、酒に惹かれてゆく私」みたいで情けない。しかも午後の一時からですって。女に押し切られたに決まっています。昼間から旨いものくって一杯飲む習慣は男にはないですからね。下町の男は情けない。昔長崎の端島と言うところに取材に言ったときに聞いた宿の若いおかみさんの言葉を思い出しました。翌日端島(通称軍艦島)に渡るために漁師さんと約束してあったのですが、波が荒いと言うことでドタキャン。「帰りは心配しなくていい、迎えが無理なら翌日でもかまわない」と言ったんですが拒否。これは漁師の判断が適切なんですがこっちは時間も限られているし、まして荒れる海を背景の方が絵になる、なんてスケベ根性もあります。でもいくら頼んでも駄目。そうしたら宿のおかみさんが切れて「野母の男は意気地がなか!」と怒鳴ったんです。その一言で舟は出して貰えました。迎えも来ました。舟から降ろされたところに船が待っていなかったら風を避けているから、島を一巡りしてくれと言われました。「風をよけて舟を着ける」と言ってくれました。なんだそんな手があるのかって、おかみさんはそれを知ってたんですね。

で、写真が話しと全然関係ないんですが、以前牛若丸のところでお話しした若いカップルが新婚旅行に行くことに決まりました。そこで朝、水天宮まで海外渡航のお守りを受けに行ったんです。そうしたら今日は戌の日なんでしょうか、朝からけっこう人出があって露店も出ていました。水天宮でなぜ旅の安全祈願なんだかわかりませんが、水に縁があると言うことなんでしょうか。これが朝の十時半です。

そんなわけでこれから、勉強さぼって、強い女と情けない男どもの顔を見比べに行ってきます。

気をつけましょう

2005 年 11 月 17 日

転倒昨夜8時30分ごろ、都内某所、地下鉄。右から二番目のジャンパー姿の若者が駅員を伴って脱兎のごとく出口の方へ向かうのを目撃。誰か追いかけているのかな、と思いながら普通に出口へ向かうとこの状況でした。ご老人(と言っていいでしょうか?70ぐらい)が階段を落ちたらしいのです。革靴着用。私はもう何年も前から、履かなければならない場所へ行くとき以外はほとんどコンバースですませていますからいいんですが、革靴でこの地下鉄の石の階段は危ないですよね。この日は乾いていましたがこれで濡れていると尚あぶない。小学校の時先生から階段の昇り下りではポケットから手を出すようにうるさく言われましたが、適切な指導でしたね。この年になっても覚えていて、必ずそうしていますから。この方、何段目ぐらいから落ちたかわかりませんが、さいわい頭は打っていない様子。意識はしっかりして言葉も明瞭でしたから。でも立てないみたい。周りの人たちも寝てなさい、起きちゃいけない、と言ってましたし。じきに救急車が来て搬送されていきましたが、年末を控えて難儀なことだろうと推察できます。皆さん、事故や怪我は一瞬の気のゆるみでおきますから、気をつけましょう。この写真だけでは暗澹としてしまいますから、暗くても光の見える写真を。

清洲橋から下流を眺める

清洲橋から佃方向を眺めたら、火星が輝いていた

一番都鳥

2005 年 11 月 12 日

昨夜の雨がウソのように良いお天気になった昼、日本橋へ出ました。吉祥寺から始まった神田川が中央区へ入って日本橋川となります。もちろんその川に日本橋が架かっているわけですが、それが下流へ向かって江戸橋、鎧橋、茅場橋と隅田川へ出るまでにほかにも何本かかかっています。これは江戸橋と平行して架かっている送水管。今年初めての都鳥です。これが現れると冬到来です。今日は随分あたたかいので鳥もひなたぼっこ。一時間たってもここにいました。風がないのにみんな同じ方を向いているのは向日性? のどかな日本橋界隈でした。