2005 年 5 月

コマフォト

2005 年 5 月 29 日

デジタルプリント

玄光社のムック本「プロフェッショナル デジタルプリント」にインクジェットプリンターで作るモノクロ作品の作り方を解説。

江戸っ子と信濃の山猿

2005 年 5 月 29 日

上に北海道の坂さんからメールをいただきその中に「下町生まれの下町育ち」とありますので、このあたりを詳しくご説明する義務が生じて参りました。
その前にこの写真の説明。これコスモス街道へドライブに行って撮ってきたみたいでしょ。実は大枚はたいてつけたシマノのコンポーネントをつんだ愛車ブリジストン製自転車で行ってきた都内某所の写真。住所はどうなるのかちょっとわかりませんが、八重洲通り。八丁堀から東京駅へ向かう途中の久安橋の上です。橋の下は今では首都高ですが、東京オリンピックまでは川でした。日本橋川の支流ですから末は隅田川に合流し、上は神田川から分かれてきています。この橋の上にちょっとした公園ができていて、その片隅にこんな花畑が作られています。説明書きによると、菜の花、ノコギリソウ、フランス菊、カスミソウ、ルドベキア、春車菊、矢車草、ポピー、フクロナデシコ、小町草、大キンケイ菊などが植えられているそうです。私にはポピーと矢車草ぐらいしかわかりませんがきっと季節ごとにいろいろ咲くんでしょう、誰のアイデアかわかりませんがその咲っぷりは見事なものです。ちょっとした都心のオアシス。

ケシ

ケシ

さて話を戻して、江戸っ子ですが、私は下町生まれの下町育ちではありませんともありますともいえる微妙な生まれなのです。私の家族は1945年当時神田の松住町に暮らしておりました。今の秋葉原近辺です。母が私をお腹に入れて何ヶ月か過ぎた頃に東京に大空襲が来るかもしれないという噂が流れてきたらしいのです。実際それは三月に現実のものとなるわけでありますが、それを怖れた我が家族は信州の松本と言うところへ疎開をいたしました。疎開後まもなく私は生まれ落ちたわけですがこれは明らかに一人の信州人の誕生です。東京の人心が疲弊していると言うことでそのまま小学校の三年の1学期までその地にとどまりました。そうして小学校3年の夏休みに東京へ戻ってくることになったんですが、戻ってきたのは私の家族たちであって、私自身は上京と言うことになります。信州にいるときはもちろん私は信州弁、家へ帰ると「地べた」を「地びた」とか発音する年寄りがいたり、ともかく家中江戸弁です。それにその間仕事の都合で上京する家族に連れられて何度も東京に来ていますから東京かぶれの信州小僧が正確な所です。

ケシ

東京に戻ってからは茅場町、小網町、人形町と移り住みたぶんこの人形町で終焉するのでしょう。そんなわけでわたしはどっぷりと東京に漬かって育った信州信濃の山猿なんです。ですから人一倍あの戦争を憎むわけです。私を江戸っ子から追いやったあの戦争をです。でも、今や典型的な地方都市に成り下がってしまいましたが、当時の信州はそれはきれいでした。ですからそこで幼年期を過ごせたことは親に感謝をしております。
もし坂さんからメールをいただかなければこんな個人的なことは多分書かなかったでしょう。でもまあ、自然な流れでこんなことも書くことになったのはいいのか悪いのか。それでも若い来訪者、地方から来訪される方々におもしろいと言われれば、調子に乗る性格は改まりそうもありませんから、今後もこのまま突っ走ることになりそうです。東京は休むことなく変貌していきます。今の秋葉原界隈、ちょっと前の汐留、そのまたちょっと前のお台場と休むいとまがありません。お台場で立ち込んでハゼ釣りをしていると、裸足の足をハゼがつんつんつついたのはついこの間のことだったんですがねえ。すさまじい変貌について行けない方もその変貌こそが生き甲斐という方も、等しく東京からエネルギーをもらっているんでしょうから私も目にしたものめずらかなるものをお知らせしていきます。坂さんどうもありがとうございました。

飲んで、飲みつぶれて眠るまで、飲んで…..

2005 年 5 月 23 日

五月某日某線最終電車、車中にて。時計もベルトもネクタイも、身に着けているものはよさそうなものばかり、でも、こうなりたいときありますよね。文句も言わず、愚痴も言わず、怒りたいのも我慢して、殺して殺して飲んできた帰り、一人になったとたんスーッとからだから緊張が抜けていって全身ぐずぐずになってしまう。でも電車を降りるとまた体中に緊張を戻して我が家に帰る。我が家でさえ完全には脱力できない真面目なお父さん。ん~、なんだか切なささえ感じてしまいます。ちなみに私はこのときストロボをたきました。周りの人に撮影したことを宣言したかっただけですが、みんな笑っていました。それも好感的な笑いです。なぜなんでしょう?普通嫌がられるシチュエーションですよね。だのに車中の人みんななぜか好意的。理由はいろいろあるでしょうが、これは不思議でした。この方の人徳? さて、ここでめざとい方はもう気が付かれていますね。もう一人酔った方が写っています。そう、奥のベンチの手前のご婦人。左の膝がしたたか擦りむけています。転んだんですね、どこかで。洋服が汚れていませんでしたから、ただがくっと、階段を一段踏み外したか、躓いたか? 終電車の人間模様は乗る電車によってかなり違います。こんなに呑気にしていられない車線区だってあるでしょう。たまたまこの電車は安全で、日本も場所によってはまだまだ安全で、ということでしょうか。どうです? カナダで日本語を勉強しておられる皆さん、これを見て日本にどんな感想を持たれました。私はこういう日本が結構好きです。

ドメイン移籍報告第二弾

2005 年 5 月 20 日

猫

タイトルに全く関係のない写真ですみません。これ近所の空き地、下町ではこういう草ぼうぼうの空き地もゴミ捨て場になったりはしません。そのままヒメジオンやらタンポポやら雀の鉄砲などが意気軒昂に咲き誇っています。そんな場所は猫も大好き。これ猫が時々見せる光景でわたしには意味がわかりません。画面左下外にもう1匹猫が居ます。で、こののらくろはその猫を明らかに意識してはいるんですが視線を合わせないようにしています。しかもこの写真ではわかりづらいんですが顔と体が硬直しています。いわば金縛り状態。多少脅しても微動だにしません。これって、なんなの?ですか。博学の士の回答をお待ちします。

ところで、タイトルの件ですがとうとうドメイン管理を自分で行うことになりました。と、言っても何から何まですることは不可能なのでPSI Japanというドメイン管理会社に登録いたしました。元々はインターネットプロバイダーサービスのASAHIネットにお願いしていたものですが、ASAHIネットもこのPSI Japanに管理委託をしていたので結局間を一つ抜いたことになります。この間の移籍に関するASAHIネットの対応はすこぶる親切、丁寧なものでありました。営業品目が一つ減るにもかかわらず、その手続きに至るまでサポートが行われました。これは感謝に堪えません。私のようにインターネットのなんたるかもわからずにただ便利ソフトの力を借りてホームページを運用する「仮免路上スピード違反運転者」には誠にありがたい対応であったことを強調しておきます。で、その移籍ですがハードルはきわめて低い、むしろハードルはなかったといってもいいくらいです。PSI Japanで徐々に個人管理者が増えているものと見えて管理システムを新システムに切り替えて非常に簡便になっております。私の場合ASAHIネットが管理者になっていた関係上旧システムでまず管理者変更を行い、そののち新システムへ移行、という形になりましたが場面場面でhow toが入り、猿でもわかる風間でも、というほどのわかりやすさでした。これで晴れてKAZAMA-FOTO.COMの管理者会計責任者その他責任者が風間雅昭になったわけです。今までASAHIネットで独自ドメインを管理されていたときにはWho is情報が裸で野原に立っているほどにさらされていた(実名から住所、電話番号まで)ものを串(プロキシ)を通して見えなくもしました。なんだかお尻がすうすうしていたのがパンツをはいてズボンもつけてといった落ち着いた感じになりました。残るはXreaでのドメイン実行ですが、これがサポートページ(Xrea運営ではない)を読むと頭が痛くなるくらいに混乱します。簡単に表記するのをわざと避けているようなサポート。日本の道理標識、じゃなくて道路標識みたい。本家の手続き画面に付属している解説はわかりやすい日本語なので、こちらだけで挑戦してみようと思います。強制移管でできるだけタイムラグなしにASAHIネットからXreaへ移行しようと思いますが、もし6月1日以降www.kazama-foto.comがとぎれるようなことがあったら、「あ、風間の奴、ミスったな!」って思ってください。そうして温かい気持ちと充分な忍耐で再び開設されるまで待っていてください。どうぞよろしくお願いいたします。

Little Birds

2005 年 5 月 19 日

Little Birds

映画を見てきました。「Little Birds」綿井健陽 撮影、監督。米軍の侵攻前からイラクに入り、現在まで徹底して撃たれる側、殺される側の視点から取材されたドキュメンタリー映画です。綿井さんの取材フィルムはテレビでも特派員報告としてオンエアされていますから我々も目にしているはずですが、この映画の中で目にする悲惨さは決して今まで見たことのないものでした。つまりマスコミュニケーションというフィルターを通すと事実が相当歪められてしまうという証左にもなっている映画です。「悲惨すぎるから、スタンスが一方的だから」などという『良識』による取捨選択が事実を歪めてしまうことがあるのはベトナムでさんざん経験済みですが、今回もまた大マスコミは大きな過ちを犯したようです。テレビから流れたロングの絵では爆弾が落ちてあがる煙、寄りの絵では爆撃跡の巨大な穴、などが放映されただけですが、当然ながらその下には生きて日々生活を送っていた人々が居たのです。子供や母や父がその爆撃で頭から脳みそが流れ出たり、内蔵が体の外にあふれ出たりという死に方をしているのです。マスコミではこの「個」の部分の被害が完全に排除されてしまっています。しかし悲惨さは「個」の部分にこそあるのです。大儀の失われた戦争を今も続けるアメリカに協力する我が国に棲む我々は、少なくともこの悲惨さを直視する義務があると思います。その上で是か非かを言うべきだろうと思います。

Little Birds

綿井健陽氏のサイトはhttp://www1.odn.ne.jp/watai/index.htmです。

註:Mac環境でIEをお使いの場合、上記サイトで日本語が文字化けすることがあります。その場合はSafariかNetscapeでご覧になることをおすすめします。

祭りのあと

2005 年 5 月 17 日

鳩

14,15日の祭りが終わって、ご近所はちょっと虚脱状態です。わたしはと言えばその間撮影でノベルティー用のライターを撮っていました。御輿が来るたびに先棒の前を行くお囃子の笛や太鼓が聞こえてきます。15日の昼はスタジオの前の道いっぱいにテーブルが並べられて、担ぎ手のために午餐が用意されていました。昼が終わってさあこれからというときに、一天にわかにかき曇り篠つく雨に雷まで。やがてそれも瞬くうちにやんで、祭りは夜まで続いていきました。やっぱり、御輿は提灯に灯が入らないと感じが出ませんから、夕方から雨が上がったのは担ぐ人にも見る人にもよかったんじゃないでしょうか。雨宿りでご近所の喫茶店にもお金が落ちたでしょうし、言うことなしです。8時過ぎに最後の御輿が宮入前、神社の前で「差せ!差せ!差せ!」の声とともに、御輿が天に向かって何度もなんども差し上げられていました。

そして祭りは終わりました。今、スタジオのMacからiTuneをとおして、吉田拓郎が「日々を慰安が吹き抜けて、死んでしまうには早すぎる♪」と歌っています。わたしは納める前の撮影データにお化粧を施しているところです。

「日々を慰安が吹き抜けて……….」