‘写真’

写真家・東松照明を見る

2017 年 7 月 18 日

東松照明展

東松さんの展覧会と言うにはあまりにもさみしい展示で、タイトルばかりが仰々しい展示でした。

東松さんとは一度お会いしただけですが、それも今でも思い出す度に忸怩たる思いをいたす出会いでしたが。。。

そのことは私のブログで過去に「東松照明が死んだ1」「東松照明が死んだ2」に詳しいのでここでは省きます。

ただ、人生で悔いが残るとすれば、この東松さんとの出会いだけです。

その出会いで多分、私は写真家を捨てたんだろうと思います。

そこから先の私は写真やであって、写真家ではなくなってしまった。

ただ写真を撮って日銭を稼ぐだけの人生を生きてきたような気がします。

そういう生き方を否定するわけではありませんが、自分が目指したものはそうではなかったはずで、東松さんとの出会いを正しく真面目に受け止めなかった自分は自死に等しい選択をしたのだという思いがいつもします。

普段はお気楽に生きていますが、東松照明という名前を聞くと、いつも青春時代のそこに引き戻されます。

他人の展覧会をくさすのは嫌なので、見て良くないときは書かないでスルーするのが常ですが、この転覧会は駄目です。

言葉で写真を説明するような写真展ならやらないほうがよっぽどいい。

 

Saul Leiter

2017 年 6 月 18 日

ソウルライター

一昨年この人の日常を描いた映画を見たときから、日本で個展が開催されるときは見に行こうと決めていました。

そして、今日遅ればせながら行ってきたのですが、意外に若い人が多くてそれは少し驚きました。

映画からの印象で、街なかスナップの作品を期待して行ったのですが、少しニュアンスが違いました。

ブレッソンや伊兵衛さんのような「街なかスナップ」のお洒落版みたいなものを想像していたのですが、写真は総じてグラフィック的で、言ってみれば「写真好きのデザイナーが撮った写真」みたいと言えば伝わるでしょうか、スナップとしては少し幅が狭いのです。

街なかで撮ってはいるんですが、作意が勝っている感じがして、そこにセンスはあってもヒューマニティーが希薄、と言っては少し言い過ぎになるかもしれませんが、人々の日常に興味があるというより、日常が生み出す上等な景色に興味がある、と言ったような写真でした。

スナップっを求めていた私には、そういう意味では少し食い足りないところがありましたが、作品は総じてオシャレでイイ感じの写真展でした。

映画を見てない人にはどう見えるのだろうかというところもちょっと興味のあるところです。

来週まで文化村です。

ウィーンからの手紙

2017 年 6 月 7 日

ウィーンからの便りです。

Schifteさんのお友達の庭の大きな桜の木にさくらんぼがたくさん実りましたとさ。

野原にはたくさんのひなげしが咲きましたとさ。

山村暮鳥の「いちめんのなのはな」を思い出しました。

「風景」の中の「純銀もざいく」という詩です。

夢中になって詩を読んだ時期がありました。

立原道造に酔ったかと思うと北川冬彦に傾倒したり、草野心平に感心したかと思うと鈴木 志郎康に夢中になったり。

一本道に行けない青春時代でした。

卓球や将棋で一本道を進む若者の姿を見ると「凄いなあ」と、ただただ驚いています。

 

写真はすべてMichael Schifteさんです。

地球に刺さった二本の棘

2017 年 5 月 27 日
USSR

1989 モスクワ

金正恩 + Donald John Trump

古宇利島とコーヒー農園

2017 年 5 月 20 日

沖縄から写真が送られてきました。

沖縄でも本島では星空の観察は難しいそうで、星を見たい人は古宇利島へ行くそうです。

そして、沖縄にもコーヒー農園が出来たそうですが、、、名産品になるまでまだ少し時間が必要なようです。

最後は私の住まいより更に芸術的に古びたバス、何に使っているんでしょうか?

AWZさんは「今年の台風で消えるかも?」と言ってますが、さて。

古宇利島へは今は橋が架かって行き来が随分楽になったそうですが、便利になると失われるものがあるんですよね。

病人なんかが出たときはありがたいでしょうけれど、痛し痒しですね。

撮影はすべてAWZさんです。

質問

2017 年 4 月 29 日

根津神社

日本に住んで、特別の宗教的信条も明確な政治立場も持たない私には今素朴な疑問が一つあります。

それは、アメリカのICBMの発射実験は問題がなくて、北朝鮮のミサイル発射実験は非難される明確な理由はあるのでしょうか? という問題です。

特定の立場を取れば答えは明白です。

私が知りたいのは立場が変わっても双方に受け入れ可能な普遍的な理由はあるのかということです。

政治と宗教には「普遍的」な「解」は見出せないのでしょうか?