
映画の宣材から
映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見てきました。
実はこの伝説のバンドをリアルタイムでは知りませんでした。
もちろんクイーンというバンド名や「We will rock you」などは耳にはついていましたが、聞いていたというほどではなかったのです。
1971年に、ずっと毎日のように路上でデモを追いかけて取材していた日常が終わり、これから先の自分の人生をどう組み上げていこうかと模索している頃でした。
音楽は殆ど聞いていませんでした、洋楽もフォークも。
クイーンがデビューした1973年はそんな自分には大きな節目が訪れます。
学生時代の友人で同人誌のメンバーだったUから電話があって「今どうしてる?」と訊かれました。
「デモは撮りに行ってない。ブラブラしてる」
そうすると彼は「ブラブラしてちゃいけない。うちに来ないか?撮影中継部の副部長に話はしてあるから一度来いよ」といいます。
Uはその時フジテレビの報道局で社会部にいました。
ブラブラしている私の心配をしてくれたんだと思います。
デモの写真を100枚ぐらい紙焼きして、それを持って、会ってくれるという撮影中継部の副部長を訪ねました。
彼は写真を見て「いつから来られる?」と。
それで私は今までのフリーで突貫小僧みたいなトップ屋紛いの撮影生活から、報道記者証を持って取材する生活へと変わりました。
その時その副部長から「三年辛抱してくれ、三年経てば悪いようにはしないから」ということと「マスコミには協定というものがある、それに違反すると撮影した写真も使えないことがある。ただ、君にそれを期待しては居ないから、今までどおりできるところは今までどおり撮ってくれ」と言われました。
その日からフジテレビへ通う生活が始まりました。
ムービー取材が主である撮影部でスティル撮影を担当、周りから「パチカメ」と呼ばれていましたが、パチカメの需要はそう多くはないため無駄に遊ばせておくよりはと結局ムービーも回すようになりました。
辛抱してくれと言われた通り、給料は月に五万円。
友達のUがそろそろ年収1千万に届こうかと言う頃です。
その辛抱の二年目に母に胃がんが見つかり、とても五万の給料では治療費が出ないので、やはり同人誌時代の仲間で出版社に居た友だちに頼んで校正の仕事を回してもらいました。
副部長はそれをフジテレビの社内でやることを大目に見てくれました。
そして、約束の三年を辛抱したのですが、その三年目にフジテレビの社長の鹿内さんが急逝。
会社の方針が一気に変わり、わたしはアルバイトや嘱託、契約カメラマンなどはひとまとめに別会社を作ってそこに行くように言われました。
私はそれを断って、再びフリーの生活へ踏み出すのですが、そんな人生の激しく動く時に、クイーンは聞いていませんでした。
映画は彼らの出会いから、成功、成功すると必ず寄ってくる悪いやつ、そして挫折から更にエイズ感染、再結成、で、最後に20分以上に渡る例のライブエイドの場面。
彼らの人生もまた小説にしたらあざといほどの筋書きを実人生で送ったようです。
いくつかの場面で泣かされました。
クイーンを知らない私でも感動を覚えたのですから、リアルタイムで聞いていた人には、これは万感胸に迫るかもしれません。
良かったです。