‘昔のはなし’

スッキリと

2016 年 10 月 31 日

空

天高く、秋晴れの空がなかなかやって来ません。

それでも、空を見ていると飽きないですよね。

子供の頃、松本城の公園に(天守閣のある堀の内側でなく、その外の少し離れたところに)石垣だけが残っていて、それが5メートルほどでそんなに高くない。

そこへ登ると中が少しえぐれていて一面に草が生えて、なんだか子供基地のようになっていました。

凹んでいるのでその中に入ってしまえば、外からは見えません。

その頃天守閣は改修中で、お城全体に蓆が掛かっていて、改修中でも特別の許可を取れば、中には上がれたんですが、筵越しに見る外はぼんやりしていて、だから、石垣の中に入っている私を見つけることはできなかったと思います。

学校から帰ると、よく一人でお城へ行って、その石垣に隠れて草に寝ころび、雲を眺めていました。

四囲を高い山に囲まれた盆地に湧く雲はいつまで見ていても飽きない形の変化を見せてくれました。

今思えば、詩的な子供だったのに、なぜこんなに現実的なおとなになってしまったんでしょう?

その一方でなかなか大人の了見が持てないでいる。

なんだかなあ、な人生で、こっちもなかなかスッキリとは晴れ渡らないんですねえ。

オリンピック 2

2016 年 8 月 11 日

尾花

オリンピックの続きです。

実は私、体操もやっていたんです。

でも中学の時で、高校ではやらなかったので、ほんのかじった程度なんですけど。

その中学の体操班(そう呼んでいたんです)は体育系のクラブには珍しく、縦社会の縛りが緩かったんです。

普通、一年生が器具の支度をして、三年生から練習に入るというケースが多いですよね。

ところが私の居た中学の体操班では、器具の準備は後輩がするんではなくて、先に練習場へ来たものがする、って決まりでした。

これだとみんなできるだけ遅く、準備の済んだ頃に出てきそうですが、ところがやっぱり下級生ほど、早く来て準備をしていました。

何故かと言うに、器具の準備をした者は優先的にその競技の練習ができるという決まりがあったのです。

器具の準備をしなければ練習の順番は先輩から、と決められていたんですが、道具を出せば先輩よりも先に練習できる。

ですから、新人はできるだけ早く行って器具の準備をする。

これ、なかなかいい決まりでしょ。

道具の撤収は全員で、が決まりでした。

あの時代にこのルールを作った先生は大したもんだと思います。

ちなみに顧問は物理の先生でした。

論理的なのかな。

で、体操ですが、内村は凄いですねえ。

私の子供の頃は小野喬、「鬼に金棒、小野に鉄棒」なんて言われて、鉄棒が得意種目でした。

その後、記憶にあるのは遠藤とか具志堅、みんな美しかったんですが、その中でも内村は素晴らしいですね。

今はすっかりメジャーなスポーツになった体操ですが、私が中学生の頃には「クラブ活動何してるの?」「体操です」「体操? ラジオ体操?」なんて訊く人が居たんですよ。

隔世の感があります。

唐突ですが、夏はうなぎ、でしょ。

数字

2014 年 11 月 2 日

 

清澄公園

清澄公園

1.19  4.28  6.15  10.21  まあ、他にも様々あるんですが、この数字を見てこれが何を意味するかピンとくる人はもう皆いい年になっているんですねえ。

急にこんなことを思ったのは、夕べNHKのSONGSで中島みゆきの「世情」を聞いたからです。

わたしはなぜか歌謡曲には保守的で、吉田拓郎も中島みゆきも忌野清志郎もそのヒットしている時にはあまり感じなかったのです。

尤も彼らの全盛期には岡林信康や高田渡がまだいて、私達は彼らにシンパシーを感じていたからでしょうね。

拓郎や中島みゆき、忌野清志郎の扱うプロテスト、反抗、抗議は我々には扱う世界がちょっと広すぎたのです。

もう少し狭い世界を扱う岡林や高田渡が良かったんですねえ。

でも彼らが扱う世界は狭すぎて、同時代のコアな人々にしか深く突き刺さらなかった。

拓郎や中島みゆきや忌野清志郎などのもっと広い世界でプロテストする歌詞が結局、より多くの人々の胸の中に残っていったということでしょうかねえ。

そして一部のコアな人達がそのコアな状況から時を経て、物事をもう少うし高いところから眺められるようになってから、その広い世界を扱うプロテストソングに耳を傾けられるようになった、ということなんじゃないでしょうかねえ。
ま、わたしのことですけど。

拓郎は集会で「帰れコール」を受けたことがあるんですからねえ。

今では拓郎ほどのプロテストさえする歌手はいませんものねえ。

わたしの知らないところで居るのかもしれませんが、彼らが凄いのはプロテストソングをヒットソングにまで持ち上げる力があったことです。

抗議はいつの場合も少数者の声の小さい意見ですが、それを彼らは抗議などしていない人達の心にまで届けることができる。

才能でしょうね。

余談ですが、桑田佳祐が勲章もらうんですね。
彼はプロテスト・ソング歌いませんものねえ、ミタイナノは歌うんですけど。
権力はよく見ていますね、その辺り。
アハハハ、余計でしたね。

朝の清澄公園に見えますが、日中です。

マウンテンパーカー

2014 年 10 月 28 日

今から30年ほど前に着ていたマウンテンパーカーです。
当時日本で着ている人はあまりいなかったメーカー「BERT PULITZER(バート ピューリッツァー)」のマンパーです。

APのカメラマンが着ているのを見て、どこで買ったのかと訊いたら、日本だという。
だけど、どこで買ったか忘れたと言うんです。
今と違って簡単に「ググる」というような検索手段のない頃ですから、ちょっとお手上げでした。
ところが別の取材先で、今度はAFPのカメラマンが同じものを着ていた。
おまけにその人は買った店を覚えていたので、わたしも手に入れることが出来ました。

秋、冬、早春と10年ほどはこればかり着ていました。
が、ご覧のように大分しょっぱくなってきたんで、もう捨てようかなあと思っているところへ、KODAKからお洒落なマウンテンパーカーをもらいました。
で、そっちへ移ったんですが、このバート ピューリッツァーのマンパーがどうしても捨てられない。
で二十年ほどタンスの中に眠っていたんですが、ひょんなことからそれが再びわたしの目に触れました。

ずいぶん時を経ているのに生地はまだしっかりしています。
ゴムけているところもないし、もう一度これを着たい、と思ったわけです。
なんでも捨てるくせに、気に入ったものの物持ちはいいんです。

思い切ってこれを黒に染めてみることにしました。
染めるといえば、まあ大概はダイロンでしょうが、今回は「Rit染料」というのを使ってみることにしました。
値段がダイロンの半分以下というのが決め手です。

さあ、いかなる結果になりつるや。

乞うご期待です。

「燃ゆる海峡」

2014 年 6 月 21 日

NDU

友達が久しぶりに訪ねてきました。

NDUの井上修監督です。

1967年から1971年までの間、ひっきりなしに会って、全共闘の運動を取材していました。

その一方で彼は早稲田大学にドキュメンタリーを制作する集団、NDU(日本ドキュメンタリストユニオン)を布川徹郎氏らとともに立ち上げ、彼の関わった「鬼っ子」や「モトシンカカランヌー」、「出草之歌」などを撮影、監督しました。

その、NDUと布川さんのいろいろをまとめた本が出たので持ってきてくれたのです。

井上さんが写真と文章を寄せています。

同時に写真集「砂川闘争」も出版されました。

「NDU」「井上修」「布川徹朗」「モトシンカカランヌー」「出草之歌」などに関してはググれば山ほど出てきますので、ここでは触れません。

友達が頑張っているなあ、というお知らせです。

福島菊次郎さんや東松照明さんとの思い出をずいぶん話しました。

昨日のことのように鮮やかに胸に浮かぶあの時期、あの人達です。