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「ランゲルハンス島の午後」というのは文が村上春樹で絵が安西水丸のごくごく短いエッセイ集のタイトルで、ご存じの方も多いと思います。
そのエッセイ集の第25編(最後の章なのですが)の最後の一行に「1961年の春の温かい闇の中で、ぼくはそっと手をのばして、あの神秘的なランゲルハンス島の岸辺にふれた——」 とあって、それがエッセイ集のタイトルにもなっています。村上春樹は小説でもこういう、章のエポックとなる一文からその章のタイトルを取る事は割と常套なんですが、今日はその話ではなくて、このエッセイ集のタイトルの「ランゲルハンス島」
その文章からこの島を知らない人でも、遥か外国の海洋に浮かぶ魅力的な島を思い浮かべたりするでしょうが、実はこれ、人間の体内にある島なんですね。膵臓にあってまるで島のように転々と散らばって、主にインシュリンを体内に送り出しているんですね。わたしはこれをつい最近知りました。福岡伸一の「動的平衡」の中で知ったんです。
で、この不思議な名前のエッセイ集にUFOに関する随想があるんですが、村上春樹という人はUFOにあまり感心が無くて、だからスピルバーグの「未知との遭遇」を見てもあまり感心しなかった、とか書いています。UFOの存在を信じているわけでもないし、信じていないわけでもなく、あると言われれば「あるのかな」と思い、ないと言われれば「ないのかな」と思うんだそうです。
じつはわたしもUFOには全く関心がなくて村上春樹とは逆にないと言われると「あるんじゃない」と思い、あると言われると「ないんじゃない」と思うんです。これはわたしが天の邪鬼でへそが曲がっているからというわけではなく、それなりに理由はあるのです。わたしはUFOの存在自体はきっとあるだろうと思っているんです。
なのに、あるんじゃないと言われるとないと思ったり、ないと言われるとあると思ったりするのは、じつはそこに時間軸が絡んでいるからなんです。
地球外に生物はきっといただろうし、未来にもきっと出現してくるに違いない、と思っているんです。ただ、私たちが生きているこの瞬間に知的な生物がどこかにいる可能性は低いんじゃないかと思っているんです。
ですからあると言われればないと思い、ないと言われればあると思うわけです。
地球が宇宙に存在している時間は宇宙の存在時間から見ればほんの一瞬です。その一瞬の中に高度な文明を持ったわれわれが存在するのは更にほんの一瞬です。その瞬きよりも短い時間しか宇宙にいないわれわれがやはり遙か彼方で瞬きほどの時間に誕生し消滅した生物と互いにおなじ瞬間に出会うことは不可能なんじゃないでしょうか。私たちと私たち以外の地球外生物がその一瞬のタイミングを同期させて、更にそれがこの広い宇宙空間で出会う可能性は、それはもうTOTOで6億円が連続6億回も当たってしまう可能性ぐらい低いと思っているんです。あるいは始めから約束されているかしかあり得ないと思っているんです。
UFOを信ずる人にこの話をすると、それでも確率論的にはあり得るんだから、わたしは信じるとか言うんですが、その言葉ほど信じられない言葉もないんですね。
何故なら、その確率は今日その人が歩いているときにその人の頭に隕石が当たる確率よりずっと低いわけですから、もっと言えば今日その人がバスにはねられて死んでしまう確率よりもずっとずっと低いんですから。その低い方の確率を本気で信じるなら、その人は今日バスに轢かれるかもしれない恐怖から、恐くて一歩も家から出られないはずです。 でもそう言う人はそんなことは微塵も気にかけずに毎日生活しています。つまりそんな低い確率は起きっこないと思っているわけなんですよね。みんなそうです。そうでなければノイローゼになって、何もできないばかりか、生きてなんか居られなくなります。ですからそんな低い確率が起きるとは信じていない人が、ことUFOになるとそれより更に低い確率でも起きる! と思ってしまうのって変ですよね。
こういう風に、一見科学的に見えて実は非科学的な事ってたくさんあります。
別に星占いや手相でなくとも、地震の予知とか高速増殖炉とかって、本物の学者が本気でやっているんですけど、どうもわたしには非科学的に見えるんですがねえ。。。
写真は散歩の途中見つけたとかげの干物です。わずか三センチほどです。