‘文学’

ドナルド・キーン、石川啄木

2016 年 5 月 20 日

隅田川

今朝の朝日新聞の文芸欄にドナルド・キーンが(日本の)現代人は石川啄木を読めと書いています。

その内容はそれぞれにお任せするとして、その中に「二十年前は電車の中ではみんな本を読んでいた。今はゲームだ」とあります。

確かにね、そういう傾向はありますね。

カップルで並んで座っていてもそれぞれ別々にゲームをしているのも珍しくありません。

どうなんでしょう? そういうの。

若冲見るのに連日五時間以上の行列ができているのといい、どうかしてるぜ日本。

2014 年 11 月 8 日

きのう夜中、NHKテレビで山手線を72時間かけて歩いて一周するという番組。

その72時間の中に先日の皆既月食が入っていました。

場所はわからなかったんですがどこかの高架橋、線路をまたいで架かったその橋の上は空が開いていて、そこに欠けつつある月が見えていました。

橋の上で何人かの人が月を見上げています。

それぞれに月を見上げる理由があって、それをカメラは訊ねて動いてゆきます。

そんな中に集団とは離れてしみじみと月を見上げる30代半ば過ぎぐらいの女性が一人。

「夢は何ですか?」

カメラがその女性に訪ねます。

「夢は、親の近くに住んで、犬を飼うことです」

その女性はそう言って、わずかに微笑みました。

吉本隆明

2014 年 10 月 9 日

共同幻想論

わたしが毎日メールチェックの後に訪ね歩くブログやホームページの中に、糸井重里氏の「ほぼ日刊イトイ新聞」というのがありまして、いまそこにこないだ亡くなった吉本隆明の長女のお話「猫屋台」が載っているのです。

これを読んで、はるか昔に読んだ吉本隆明の、(私たちの年代では一部の作家の名前を音読みする(へき)がありまして、吉本隆明は「よしもとたかあき」ではなくて「よしもとりゅうめい」福田恆存はこうそん、などと)「共同幻想論」をもう一度読んでみようかという気になったのです。

何故かと言うに、若い頃熱に浮かされたように若者が読んだこの本の作者に対するイメージと「猫屋台」で語られるよしもとりゅうめいとの間にかなりの隔たりがあったからでした。

当時熱に浮かされたように読んだ本に羽仁五郎の「都市の論理」もありましたね。

で、なぜ本がバラバラなのかと言うと、これから「自炊」するからです。
我が家にある本で、もう一度読んでみようと思ったときにはみんなこうしてバラバラにして一ページごとにpdfデータにします。
そうしてiPadで読むのです。
初版の「共同幻想論」をバラバラにしてしまうなんて! とお叱りを受けるかもしれませんが、あいにくわたしには初版本を有り難がる神経は希薄でして、初版も重版も中身が一緒であればどっちを読んでもおんなじ、ということで。
あ、誰か、初版欲しい人がいたかなあ?
まあ、いいや、もうしょうがない。

大英博物館 金と銀の文化史

2012 年 1 月 1 日

小川昭子さんの翻訳です。柊風舎から。

新年最初のご案内です。

図版も盛りだくさんで、面白そうですよ。

心は あじさい の 花

2011 年 6 月 21 日

梅雨空に紫陽花はよく似合います。

あじさいあじさいあじさいあじさい

人形町の住人は紫陽花が好きみたいです。
街路樹のある土の上に勝手に植栽。でも、これ中央区では道交法違反にならないんです。多分墨田区も台東区も江東区も。
大きな鉢を自分の家の前の道路に置いて、丹精しても、これも道路の不法占拠にはなりません。ま、限度はあるんでしょうが、かなり大きなものまで許されています。

それは、そういう景色が下町そのものだからでしょうね。
人の丈ほどに育った大きな紫陽花もあれば、昨日鉢から移したばかりのような小さいものまで相当数あります。
この四枚は写真にある住所のこの道をほんの二十メートルばかり歩いただけですから。

店先に柚を植えて、それを商売に使っている蕎麦屋があれば、町の人のために(?)大きな山椒の木を植えている人。あと枇杷の木も何本もあります。夏みかんもあるし、ほんとやりたい放題ですが、これが町の雰囲気を作っているんですね。

心は紫陽花の花
桃色に咲く日はあれど
薄紫のおもいでばかりはせんなんくて

なぜか朔太郎のこのフレーズを覚えていて、忘れません。

しゃしんはすべてiPhone3GSです。

UFOとかランゲルハンス島とか

2011 年 6 月 9 日
蜥蜴

スキャン

「ランゲルハンス島の午後」というのは文が村上春樹で絵が安西水丸のごくごく短いエッセイ集のタイトルで、ご存じの方も多いと思います。
そのエッセイ集の第25編(最後の章なのですが)の最後の一行に「1961年の春の温かい闇の中で、ぼくはそっと手をのばして、あの神秘的なランゲルハンス島の岸辺にふれた——」 とあって、それがエッセイ集のタイトルにもなっています。村上春樹は小説でもこういう、章のエポックとなる一文からその章のタイトルを取る事は割と常套なんですが、今日はその話ではなくて、このエッセイ集のタイトルの「ランゲルハンス島」
その文章からこの島を知らない人でも、遥か外国の海洋に浮かぶ魅力的な島を思い浮かべたりするでしょうが、実はこれ、人間の体内にある島なんですね。膵臓にあってまるで島のように転々と散らばって、主にインシュリンを体内に送り出しているんですね。わたしはこれをつい最近知りました。福岡伸一の「動的平衡」の中で知ったんです。

で、この不思議な名前のエッセイ集にUFOに関する随想があるんですが、村上春樹という人はUFOにあまり感心が無くて、だからスピルバーグの「未知との遭遇」を見てもあまり感心しなかった、とか書いています。UFOの存在を信じているわけでもないし、信じていないわけでもなく、あると言われれば「あるのかな」と思い、ないと言われれば「ないのかな」と思うんだそうです。

じつはわたしもUFOには全く関心がなくて村上春樹とは逆にないと言われると「あるんじゃない」と思い、あると言われると「ないんじゃない」と思うんです。これはわたしが天の邪鬼でへそが曲がっているからというわけではなく、それなりに理由はあるのです。わたしはUFOの存在自体はきっとあるだろうと思っているんです。
なのに、あるんじゃないと言われるとないと思ったり、ないと言われるとあると思ったりするのは、じつはそこに時間軸が絡んでいるからなんです。
地球外に生物はきっといただろうし、未来にもきっと出現してくるに違いない、と思っているんです。ただ、私たちが生きているこの瞬間に知的な生物がどこかにいる可能性は低いんじゃないかと思っているんです。

ですからあると言われればないと思い、ないと言われればあると思うわけです。

地球が宇宙に存在している時間は宇宙の存在時間から見ればほんの一瞬です。その一瞬の中に高度な文明を持ったわれわれが存在するのは更にほんの一瞬です。その瞬きよりも短い時間しか宇宙にいないわれわれがやはり遙か彼方で瞬きほどの時間に誕生し消滅した生物と互いにおなじ瞬間に出会うことは不可能なんじゃないでしょうか。私たちと私たち以外の地球外生物がその一瞬のタイミングを同期させて、更にそれがこの広い宇宙空間で出会う可能性は、それはもうTOTOで6億円が連続6億回も当たってしまう可能性ぐらい低いと思っているんです。あるいは始めから約束されているかしかあり得ないと思っているんです。

UFOを信ずる人にこの話をすると、それでも確率論的にはあり得るんだから、わたしは信じるとか言うんですが、その言葉ほど信じられない言葉もないんですね。
何故なら、その確率は今日その人が歩いているときにその人の頭に隕石が当たる確率よりずっと低いわけですから、もっと言えば今日その人がバスにはねられて死んでしまう確率よりもずっとずっと低いんですから。その低い方の確率を本気で信じるなら、その人は今日バスに轢かれるかもしれない恐怖から、恐くて一歩も家から出られないはずです。 でもそう言う人はそんなことは微塵も気にかけずに毎日生活しています。つまりそんな低い確率は起きっこないと思っているわけなんですよね。みんなそうです。そうでなければノイローゼになって、何もできないばかりか、生きてなんか居られなくなります。ですからそんな低い確率が起きるとは信じていない人が、ことUFOになるとそれより更に低い確率でも起きる! と思ってしまうのって変ですよね。

こういう風に、一見科学的に見えて実は非科学的な事ってたくさんあります。
別に星占いや手相でなくとも、地震の予知とか高速増殖炉とかって、本物の学者が本気でやっているんですけど、どうもわたしには非科学的に見えるんですがねえ。。。

写真は散歩の途中見つけたとかげの干物です。わずか三センチほどです。